「死神にとりつかれしかただ一人寂しく消えてすがたとどめず」
父の遺品の手帳には、戻らない娘を思って詠んだ短歌が、こう書きとめてあった。
秋田市の看護学校に通う木村かほるさん(当時21)は1960年2月27日、「(青森県八戸市の)実家に行ってくる」と言い残して寮を出た。同級生に見送られて秋田駅の改札を通過したのが、最後の目撃情報となった。
卒業を間近に控え、実家近くの八戸日赤病院に就職も決まっていた。八戸市の姉、天内(あまない)みどりさん(91)は「自分からいなくなるなんて、まったく考えられない」と話す。
陸軍獣医師だった父の仕事の関係で、天内さんら母娘3人は旧満州に渡った。敗戦後、ソ連軍の侵攻から逃れて行き着いた平壌で、過酷な収容所生活をする。「あの体験から妹は、病気がちな母のために看護師の道を志した。命の大切さは身に染みていたはず」
天内さんは、父と男鹿半島の沿岸を巡り、青函連絡船の乗船名簿を調べ、全国を巡っては手作りの「尋ね人」のチラシを貼って歩いた。
母はかほるさんが勤めるはずだった病院で亡くなった。入院中、若い看護師たちを見ては涙していたという。父の遺品の手帳にあった、戻らない娘を思って詠んだ短歌は、こう続いていた。
「一言の遺言もなく消えし吾子あきらめかねて一人涙す」
「ちょっと鷹巣へ」と言った娘の車は、能代の海岸で
松橋恵美子さん(当時26)は92年1月15日、旧合川町(北秋田市)の自宅を出たまま行方が分からなくなった。
母チヤさん(82)によると…